肥後医育塾公開セミナー

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平成18年度 第1回公開セミナー「医学的見地からみた水俣病」

司会・講師

【講師】
熊本大学大学院医学薬学研究部 神経内科学分野教授
内野 誠

演題:「水俣病の臨床?水俣病研究の足跡をたどって」
    【講師】
    熊本大学大学院医学薬学研究部 神経内科学分野教授
    内野 誠

    演題:「水俣病の臨床?水俣病研究の足跡をたどって」
【講師】
九州看護福祉大学学長
二塚 信

演題:「メチル水銀汚染地域の疫学調査」
    【講師】
    九州看護福祉大学学長
    二塚 信

    演題:「メチル水銀汚染地域の疫学調査」
【講師】
鳥取大学医学部 脳研脳神経病理部門教授
大浜 栄作

演題:「水俣病?病理学的見地から」
    【講師】
    鳥取大学医学部 脳研脳神経病理部門教授
    大浜 栄作

    演題:「水俣病?病理学的見地から」
【講師】
東北大学医学系研究科教授
佐藤 洋

演題:「環境汚染とこどもの発達」
    【講師】
    東北大学医学系研究科教授
    佐藤 洋

    演題:「環境汚染とこどもの発達」

セミナーの内容

 今年は水俣病が公式に確認されてから五十年の節目となる。七月二十三日、熊本市水前寺公園の熊本テルサで開催された「第28回肥後医育塾」では「医学的見地からみた水俣病」をテーマに、大学の医師らが水俣病研究の足跡、病理学的見地からの研究内容、メチル水銀汚染地域の調査内容と結果、環境汚染が子どもの発達に及ぼす影響を発表。約八十人の来場者は熱心に聞き入った。講演終了後の総合討論では会場からの質問に答える形で講演者同士が意見を交わした。

「熊本大学の研究」
〜これまでの水俣病研究の歩み〜
 水俣病の発見の契機となったのは、昭和三十一年四月二十一日に原因不明の脳症状を呈する六歳の女児が新日窒水俣工場付属病院小児科を受診したことで、当時の小児科部長野田兼喜博士の尽力により、水俣湾岸の湯堂、出月、月浦地区に三十人以上の類似症状を呈する患者が存在することが明らかになりました。
 同年五月二十八日には水俣市医師会、保健所、市当局、市民病院、新日窒水俣工場付属病院の担当者が集い、「水俣奇病対策委員会」が結成され、患者の措置や原因検索が進められることとなりました。水俣市は熊本大学医学部にその原因究明を依頼し、これを受けて熊本大学医学部では水俣病医学研究班を組織しました。
 尾崎正道医学部長を班長に、勝木教授(第一内科)、長野教授(小児科)、武内教授(第二病理)、六反田教授(微生物)、入鹿山教授(衛生)、喜田村教授(公衆衛生)を班員として、現地調査、学用患者としての成人ならびに小児患者の医学部附属病院への入院収容、現地の飲料水、海水、土壌、魚介類の採取と分析が開始されました。
 その後の調査で、類似の患者は同地区で昭和二十八年暮れに最初の患者が発生し、翌二十九年に約十二人、同三十年に約十四人の患者が出ていることが明らかになりました。同地区では患者の発生に前後して、大きな魚が浮き上がったり、飼い猫が干し魚を盗み食いして、流涎(りゅうえん)、失調性歩行、逆立ち、痙攣(けいれん)発作を起こしたりして、狂死する現象がみられており、人(大多数漁民)と猫の発病に共通するものとして、魚が疑われるのにさほど時間は掛かりませんでした。
 ところが、入院患者の血液検査や髄液検査に異常は見つからず、炎症反応は認められず、採取した検体からも特定の病原体が検出されなかったことから、その年の十一月四日には、本疾患が細菌、濾(ろ)過性病原体などによる伝染性疾患ではなく、水俣湾産魚介類の摂取によるある種の中毒であろうという中間報告が行われました。
 中毒物質として、昭和十四年に神奈川県平塚市でMn(マンガン)による集団食中毒が起こっており、その症状が本疾患に似ているところから、また武内教授により検索された第一例の剖検例においてMn中毒に特異的な基底核病変が認められたことなどから、Mnがその候補にあげられました。
 しかし、その後の症例の集積で臨床的にも、病理所見でも必ずしも一致せず、また喜田村教授のグループほかにより行われた水俣湾の海底泥土、湾内で捕獲された魚介類、発症猫、死亡患者の各臓器を用いた分析結果や、Mnの経口投与動物実験の成績から否定的となりました。
 次いでCu(銅)、Zn(亜鉛)、Fe(鉄)、さらにTl(タリウム)、Se(セレン)、As(ひ素)等についてもMn同様に一つ一つ厖大(ぼうだい)な試料の分析、動物実験が積み重ねられ、特に宮川九平太教授(神経精神科)の教室ではTl説に立って、喜田村教授(公衆衛生)の教室ではSe説に立って大々的な動物実験が続けられましたが、一定した結論は得られず、比較的早く中毒物質が特定されるのではと考えられた当初の予想と裏腹に、研究開始以来二年の歳月がむなしく過ぎていきました。
 昭和三十二年五月には文部省科研費による水俣病総合研究班が結成され、班長尾崎医学部長、分担者六反田、武内、入鹿山、喜田村、岡村、瀬辺、世良、長野、河盛、宮川、須田、野坂、緒方、勝木、藤田(薬学部)、藤本(長大)の各教授が参加することとなりました。
 各教室での独自の研究活動が続けられ、翌三十三年夏過ぎには武内忠男教授を中心とする第二病理教室のグループが、その年に次々と亡くなった亜急性経過例、慢性経過例計六例の剖検例の分析から小脳顆粒細胞層、後頭葉鳥距野(こうとうようちょうきょや)、中心後回(ちゅうしんこうかい)、横側頭回(おうそくとうかい)などに神経細胞の変性脱落が顕著であること、また唯一の有機水銀中毒剖検例の病理所見と酷似することを見い出し、水俣病が有機水銀中毒症であることを確信するに至りました。

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詳細な臨床所見を集積
 臨床の方では徳臣晴比古助教授を中心とする第一内科のグループは、現地調査を繰り返し、患者の症候を一六_フィルムで撮影し、患者の言語をテープに録音し、一例一例の丹念な臨床症候の分析・検討を重ね、その中核症候の特徴〔小脳性運動失調、求心性視野狭窄(きょうさく)、末梢感覚障害、構音(こうおん)障害、難聴〕からHunter & Russellの報告した有機水銀中毒に合致することを明らかにし、病理班とほぼ同時期に有機水銀が原因物質であることを確信するに至りました。
 徳臣助教授の場合は既に昭和三十二年春、東京で行われた学会に出席した際、書店で買い求めたVon Oettingen著「Poisoning」の中で、「求心性視野狭窄」を来す毒物の第一にアルキル水銀があげてあり、アルキル水銀中毒の項で引用してあるHunter,Bamford,Russellの文献が本疾患とよく似ていることに驚き、学会から帰ったのち早速工学部を訪れ、アルキル水銀のことや新日窒工場で使われている可能性について尋ねていますが、工場で使われている可能性はないということで、しばらくアルキル水銀から離れることとなりました。
 その後、各患者の正確な臨床所見をつかむため、往復六時間かけて現地調査を数百回繰り返し、昭和三十一年、三十二年、三十三年前半までに三十四例の正確な臨床所見を集積し、これらの所見がアルキル水銀中毒と完全に一致すること、患者の尿中水銀値が三〇〜四〇ppmと異常高値を示すこと、米国より取り寄せたEDTA-Caの投与により尿中水銀が一二〇〜二〇〇ppm、中には三〇〇ppmと異常な排泄増加がみられることからアルキル水銀中毒を確信するに至っています。
 この二教室の有機水銀説を基に、喜田村正次教授を中心とする公衆衛生学教室のグループにより水俣湾ならびに不知火海の海底泥土中の水銀量の測定が行われ、水俣湾内の海底泥土中には異常に大量の水銀が含有されており、しかも工場排水口付近で最高値を示すこと、また水俣湾、水俣川河口、不知火海、対照地区で採取した魚介類の水銀量も測定され、水俣湾近傍の海域で採取された魚介類では対照地区に比べて、明らかに水銀含有量が高いことが明らかにされました。また発症猫、水俣病患者の脳・肝臓・腎臓中にも多量の水銀が検出され、毛髪中の水銀量も発病後経過日数の短いものほど高い値を示すことが証明されました。
 昭和三十四年七月二十二日には医学部研究班(班長・世良完介医学部長)は非公開の形で研究報告会を開催し、臨床的、病理学的および分析的研究の結果、水俣病は現地の魚介類を摂取することによって惹起(じゃっき)される神経系疾患で、魚介類を汚染している毒物としては、水銀が極めて注目されることを承認しています。
 有機水銀の中でさらに中毒物質を特定する研究が進められ、昭和三十五年から三十六年にかけて内田槙男教授(生化学)の研究グループは水俣湾産のヒバリガイモドキからCH3-Hg-S-CH3を抽出しました。一方、昭和三十六年から三十八年にかけて、入鹿山且郎教授(衛生学)のグループでは水俣湾へ排出された水銀は主としてアセトアルデヒド酢酸設備から出たものと特定し、アセチレンよりアセトアルデヒドの生成過程で触媒として使用され、反応管のなかに沈積する水銀滓の分析から塩化メチル水銀CH3HgClを検出し、CH3HgClが直接水俣湾魚介に蓄積したものと断定しました。両者間で構造式に若干の相違点がありますが、いずれにしろ水俣病の原因物質はCH3-Hg-の形で存在することが明らかとなりました。
 これ以降、新日窒水俣工場側からの熊大の有機水銀説に抵抗する姿勢が顕著となり、水銀説を否定するマスコミ報道がしばらく続けられました。すなわち日本化学協会大島竹治理事「水俣病原因について」、東京工大清浦雷作教授「アミン説」など有機水銀に反対する意見がそれです。
 昭和三十六年四月には班長忽那将愛医学部長、入鹿山(衛生)、武内(病理)、内田(生化)、徳臣(内科)の四氏を幹事とする新しい研究班が組織され、水俣病研究に従事している十七教室が参加することになりました。
 同年九月十―十三日、ローマで開催された第七回国際神経病学会に、熊本大学より内田槙男、武内忠男、徳臣晴比古の三氏と、神戸大学より喜田村正次氏(元熊本大学教授)を派遣し、代表として徳臣氏は水俣病研究成果を公表、世界の学界の認めるところとなりました。〈内野 誠〉

総合討論は事前に受け付けた質問に答える形で行われた
水俣病発見の経緯や症状について詳しい解説がなされた

総合討論

Q 体内に入ったメチル水銀はいつまで神経系に蓄積するのですか。
大浜 蓄積量は摂取量と廃泄速度の兼ね合いで決まりますが、生物学的な半減期は七十日程度というデータがあります。二〇〇四年に国立水俣病研究所が全国約十都市の住民を対象に実施した毛髪水銀量調査では、水俣市は下から二番目でした。上位はマグロなどの大型魚が大量に消費される千葉県、宮城県。しかし脳に変化をきたす量は入っていないと考えていいでしょう。

Q メチル水銀の影響は不知火海のどこまで及んでいますか。
二塚 昭和三十五年に行われた詳細な地域調査では、いわゆる「猫踊り病」の発症範囲は北が田浦町、南が出水市、東町、獅子島、対岸は御所浦から龍ヶ岳の一部でした。その範囲は人にとっても健康障害のリスクが高かった地域だろうと考えられます。三十六年に熊本県衛生研究所が実施した毛髪の水銀調査では、ほぼ同じ地域に比較的高い濃度のメチル水銀を蓄積する人がいたとされています。

Q 以前、有機水銀の一種「チメロサール」を高濃度で含むワクチンが使用されていました。そのころ接種を受けた子どもの調査は行われましたか。
佐藤 行われていません。数年前アメリカでエチル水銀を含む防腐剤のチメロサールと自閉症の発生増加の関連が指摘され、仮説は立証されなかったものの使用中止となったのです。日本では厚生労働省の指導で濃度が低くなり、使用を中止したメーカーもあります。しかし保存が困難でコスト高を招くため、発展途上国でワクチン接種に支障をきたすという懸念もあります。

Q 毛髪水銀値の高い日本人が海外で暮らせば急激に低くなる理由は。
佐藤 魚をどの程度食べるかによりますが、外国に行けば魚を食べる機会が減るからでしょう。日本でも漁獲量の季節変動が激しいある南の島では毛髪水銀値がそれにリンクする形で変動しています。