肥後医育塾公開セミナー

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平成9年度 第1回公開セミナー「痴ほうはどこまでわかったか」

【講師】
(東大医学系研究科教授)
井原康夫

『老化の極限…アルツハイマー病』


   東京都が調査した年齢別の痴ほう患者数をみると、八十歳以上で急激に増え、八十五歳以上では五人に一人が痴ほう患者となっている。高齢者の痴ほうには、脳血管性とアルツハイマー病の二通りがあるが、近年はアルツハイマー病が急増しており、脳血管性痴ほうの出現頻度は五〇%を切るのではないかとみられている。
 先進国では、六十五歳以上人口の四%以上が痴ほう患者といわれている。昨年のアルツハイマー病学会で発表されたスウェーデンのある“長寿村"の統計では、九十五歳以上の六〇%が痴ほうだった。このことから考えると、八十歳から急激に増えるアルツハイマー病は、寿命の長い先進国共通の問題であり、人類のさだめともいえるかもしれない。
 アルツハイマー病では、大脳皮質やそれ以外の部分でも、かなりの細胞が減るということが分かってきた。それが痴ほうの根本的な原因と考えられるようになり、八〇年代の中ごろには、神経細胞が消えていくことが非常に重要だと考えられるようになった。
 さて、これまでの研究で、アルツハイマー病の細胞内には神経原線維変化と老人斑(はん)が見られることが分かってきた。老人斑は細胞の真ん中にアミロイドがたまっていくもので、老人斑はアミロイドと同義語と考えてよい。老人斑の成分は八七年に完全に解析され、アミロイドはベータタンパクからできており、神経細胞の外にたまることが分かった。
 一方、神経原線維変化は神経細胞の中にPHFができることから起きる。そのPHFはタウというタンパク質からできているものだ。
 研究者の間では次に、ベータとタウはどちらが先かという疑問が出てきた。医学的には先に起きる現象が原因に近いという考え方がある。そこで四十歳を超えると全員にアルツハイマー病と似た症状を示すダウン症患者の脳の解析をしたところ、ベータは三十一歳から沈着がみられ、タウは四十二歳から継続した沈着が始まっていた。ベータの沈着が始まり、タウの沈着が始まるまで十年の差があった。
 痴ほうではない高齢者の脳も調べたところ、ベータは蓄積しているが、タウは蓄積していないことが分かった。
 これらの研究からいえることは、アルツハイマー病の発症が病理学的には二つに分けられることだ。まず第一期はベータの蓄積。この時は痴ほうの症状はなく、二期には痴ほうの症状を伴うタウの蓄積がみられた。
 例えば、六十歳でアルツハイマー病を発症すると考えると、五十五歳からタウの蓄積、その十年前の四十五歳でベータの蓄積が始まることになる。臨床的には痴ほうの症状がないとアルツハイマー病としないが、だれもが病理を持っているというのが、この病気の大きな特色といえる。
 次は遺伝の要素を考えてみる。さまざまな説や統計があるが、近親者にアルツハイマー病の患者がいたら、その人がアルツハイマー病になる確率は高いと信じられていた。
 その原因の一つは、九二年に明らかになったアポリポタンパクEの解析だ。これは血液中や髄液中にあってコレステロールを運ぶタンパクでE2、E3、E4の三タイプがあるが、E4を持っているとアルツハイマー病になりやすくE2を持っているとなりにくいことが分かっている。アポE4の遺伝子は白人で一五%、日本人は一〇%程度が持っているといわれている。
 E4の頻度は一般で一〇―一四%だが、アルツハイマー病患者の場合は四二%と、正常の三、四倍の高い頻度でE4を持っていることになり、非常に強い危険因子だと考えられている。
 幾つかの要因をみてきたが、つまりアルツハイマー病は、ヒトの中枢神経の老化の極限にあるといえるのではないだろうか。アルツハイマー病を研究することは、ヒトの中枢神経の老化を研究することであり、治療薬の開発は、中枢神経の老化をくいとめるための薬の開発に等しい。従って、治療薬の開発はかなり難しいのはないかと思う。
 ではどうすればいいのか。
 私は治療そのものの見方を変えるべきではないかと考えている。九〇%以上が遺伝性または家族性でないアルツハイマー病で、八十歳以上になると急激に増えるが、危険因子を探し、対策をたてて管理することによって臨床上の発症は数年、延ばすことができるのではないか。寿命との関連で考えれば、発症を数年延ばすだけで根本的治療に等しいものではないかと思う。
 危険因子としては年齢、意識障害を伴う頭部外傷、女性の閉経などがあり、遺伝的因子としてはアポEタンパクがある。対策としては危険因子のコントロールがあり、一方でアポE2のメカニズムが分かれば、治療薬の開発につながるだろう。
 老化の極限で起こるアルツハイマー病は、確かに悲惨な病気であろう。しかし、平均寿命が延びたからこそ初めて人類が経験できる、ヒト固有の現代的疾患ともいえる。