肥後医育塾公開セミナー

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平成9年度 第1回公開セミナー「痴ほうはどこまでわかったか」

【講師】
(熊本大医学部教授)
宮川太平

『いたずらに恐れず愉快に生活を』


   痴ほうには二つのタイプがある。一つは血管性痴ほうと言って、高血圧や動脈硬化などが原因となって脳に梗塞(こうそく)巣が生じたり、出血を起こして痴ほうに進むタイプと、もう一つは脳が委縮するアルツハイマー病と呼ばれる病気である。アルツハイマー病は世界で原因が解明されつつあるが、まだ特効薬はない。それだけに関心も高いと思われる。これから、アルツハイマー病について分かりやすく話したい。
 世間では、痴ほうとボケを一緒にして使われているが、区別しなければならない。痴ほうは病的な脳の変化であって、しかも進行する。日常生活に支障をきたし、人格水準も低下して「物を盗まれた」という妄想に代表される幻覚症状も現れる。
 以前は、老年の初期に発症し、進行が早く、最後は植物人間になってしまう奇妙な病気をアルツハイマー病と呼んだ。発症が遅い場合を老年期痴ほうと呼んで区別していたが、脳を解剖したところ、両者に差はないということが分かった。研究者の間では、現在は両者ともアルツハイマー病と呼ばれている。
 欧米のデータでは、六十五歳以上の痴ほう患者のうち六五%がアルツハイマー病で、男二に対して女三の割合で発症する。一卵性双生児の場合、四三%の危険率があるが、非一卵性双生児は八%。つまり、遺伝とともに外的な因子も発症に関係している。
 典型的なアルツハイマー病の症例を一つ紹介しよう。以前、まじめで働き者の男性が「物忘れがひどくなった」と訴えてきた。話を聞いてみると、四十八歳ごろに、買い物でお金を払った後で品物を忘れたり、仕事がのろくなるようになったという。四十九歳になると、入浴後もそれまで着ていた汚れた下着を着たり、外出しても帰宅するのに時間がかかるようになったそうだ。そして五十歳で入院した。
 入院後の状態を見ると、一見、ほかの患者と談笑し、自然に見えるのだが、欲がなく動作は緩慢、言葉も不明りょうだった。売店に行っても病棟に帰れなくなったり、主治医の名前を忘れるなどの記銘力障害や、一カ月前の入院の日付が思い出せなくなるなどの記憶障害も見られた。さらに、一けたの加減算や読書も難しくなり、自分の名前も書けなくなって、部屋の出口も間違えるようになった。
 それから次第に症状は悪化して、妻を他人と間違えたり、品物の使用方法も分からなくなり、日常生活の能力も喪失。さらに多動、はいかい、不潔行為が見られ、植物状態となって五十七歳で亡くなった。
 アルツハイマー病の初発の症状としては、人格が浅薄となり、しまりがなく弛緩(しかん)状態、さらに軽いうつ状態に陥ることがある。このような場合は、早めに専門医に相談することを勧める。
 アルツハイマー病患者の脳をCTスキャンで調べると、脳全体が委縮して脳波も非常に乱れている。ただし、CTや脳波に異常が見られるのは、非常に進行した場合だ。
 脳が委縮するのは、神経細胞が単純委縮して脱落したり、細胞内に神経原線維変化が生じて死滅し、脳の容積が減るからだ。細胞外に老人斑(はん)もできる。
 それでは、どうして老人斑ができるのだろうか、また、なぜ神経原線維変化が起こるのだろうか。その理由は現在のところ、まだ分かっていない。発生のメカニズムの解明が今後の研究の対象である。
 さらに、アルツハイマー病に陥る危険因子としては、遺伝、中毒などさまざまな要因が考えられるが、これも、まだはっきりしていない。
 原因が分かっていないため、治療のための特効薬もまだないのが現状だ。ただ脳の細胞が減っているため、残っている細胞を活性化する必要があり、脳代謝賦活剤を投与している。ビタミンEの大量投与で進行を遅らせる方法もある。もちろん、日ごろの食生活にも気を配ってほしい。
 このように完治できる治療方法がない中では、周囲とのかかわりが特に重要になってくる。家族や周囲の人たちは、患者の異常な言動や態度を容認し、説得よりも納得させることが大事になる。さらに、行動をともにして患者の不安を取り除き、患者自身の存在感を常に本人に意識させるようにしなければならない。
 痴ほうになりやすい人は趣味がない、あまり運動をしない、頭部外傷を持ち、総入れ歯の人だといわれている。一方、なりにくい人は、読書や書字をしたり、話好きで他人の世話をよく行い、感動する心や生きがいを持っている人だ。「自分はどうなるのか」と、いたずらに恐れるのではなく、愉快に生活を送ればいいのではないだろうか。