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「あれんじ」 2012年7月7日号

【熊遊学(ゆうゆうがく)ツーリズム】
過去から現代日本が見える「西洋史学」

 先端の研究者をナビゲーターに、熊本の知の世界を観光してみませんか!
 熊本大学を中心に地元大学の教授や准教授が、専門の学問分野の内容を分かりやすく紹介する紙上の「科学館」「文学館」。それが「熊遊学ツーリズム」です。第17回のテーマは「西洋史学」。さあ「なるほど!」の旅をご一緒に…。

【はじめの1歩】

 西洋史の中でもイギリスは、シェークスピアとディケンズ、エリザベス一世とビクトリア女王、ロンドンの喧騒(けんそう)とピーター・ラビットが駆け回る静かな田園…と、さまざまな物語がよぎります。ワクワクしながら、中川先生の研究室のドアを叩きました。


Point1 「王様から庶民へ」歴史学の歴史

 歴史学は、19世紀のドイツで生まれました。当初は政治が研究の中心でしたが、もっと社会や文化に目を向けて“エリートの歴史だけではなく庶民の生き方や考え方を研究しよう≠ニいう研究者たちが現れ「社会史」という分野が生まれました。
 政治から生活へ、王様から庶民へと研究対象は移り、変化するものから変化しないものの歴史にも脚光が当てられるようになってきました。例えば、死生観、家族の在り方、親子の関係、食文化の歴史などです。
 しかしそれらを研究するには、これまで頼ってきた公文書は史料になりません。過去の庶民の、それも心の中まで探るには記録が少なすぎます。そこで、個人の手紙や日記、絵画、墓石に刻まれた墓碑銘にいたるまで、ありとあらゆる史料を元に経験と想像力を駆使して推理していくしかないのです。
 「歴史の『真実』に到達することは、容易ではありません。書かれた記録には書いた人のバイアス(先入観)がかかっています。それを前提に、研究しなければなりません」と、熊本大学文学部歴史学科の中川順子准教授は語ります。歴史学者のジョン・H・アーノルドは「歴史家の仕事というのは、犯罪を捜査する探偵のようなものだ」と言っているそうです。


Point2 イギリスで夏目漱石も受けた国勢調査

 中川准教授の専門はイギリス史。16〜18世紀初頭にかけてのイギリス庶民の文化や生活様式、行動様式を研究しています。
 昔は大家族だったイメージがありますが、それは上流階級のことで、庶民の場合は1世帯2〜5人程度でした。というのは、子どもがたくさん生まれても乳幼児の死亡率が高かったことと、成長できても男の子は十代になると徒弟に、女の子は召使いになったり農家に働きに出たりして、早くから家を出てしまったからです。ロンドンでは、職人ギルドの徒弟は7年間は見習い期間。修業が終わり、ある程度お金がたまらないと結婚できなかったため、意外に晩婚でもありました。
 産業革命以前のイギリス社会では、庶民の結婚年齢の平均は男性が28歳、女性が25歳。未婚率も高く、女性の3割ぐらいは未婚のまま実家にいて、年老いた親を見る役目を担っていました。これは現代日本にも通じる現象です。
 ヨーロッパはキリスト教社会なので、昔のイギリスの家族構成や人口を調べる時、各教区の教会に残されている記録が大いに役に立ちます。世帯主を中心に職業や結婚相手、子どもの名前などが、洗礼を受けた年、結婚した年、亡くなった年など人生の節目の出来事とともに記録されています。 
 1801年以降は、10年ごとにセンサス(census=国勢調査)が行われており、1901年に実施されたセンサスでは、ロンドン留学中の夏目漱石についての記録も残っています。


Point3 イギリスの文化・経済に貢献した移民たち

 ヨーロッパで宗教改革が起こり、イギリスは英国国教会というプロテスタントの国になりました。そこで、迫害されていたプロテスタントの一派であるカルヴァン派(ユグノー)の人々が、大陸から庇護を求めて大勢イギリスに移住してきました。16世紀後半には、1万〜1万5000人、17世紀後半には4万〜5万人の移民が入ってきたといわれます。
 それに伴い、オランダやベルギー、フランスの織物技術も入ってきたため、イギリスの織物業は飛躍的に発展することになりました。また、オランダからは園芸ももたらされ、今のイギリスのガーデニングにつながっていきました。
 18〜19世紀にはアイルランドから、20世紀になると大英帝国の旧植民地であるインド、パキスタン、バングラデシュ、西カリブから移民が入ってきました。彼らとともにさまざまな文化も輸入され、イギリス社会に大きな影響を与えました。
 フランスの移民政策は「同化主義」といわれますが、イギリスはそれぞれの文化を大事にする「多文化主義(マルチカルチャリズム)」を取ってきました。それがイギリス文化を豊かにしてきましたが、そのことが移民問題やイギリス人のアイデンティティー(identity=自己同一性、独自性)を揺るがす原因ともなっています。


Point4 紅茶と砂糖

 大英帝国の時代、イギリスは広大な植民地を最大限に利用して貿易を行っていました。その代表例が紅茶と砂糖です。
 紅茶は中国の雲南省が原産地と言われます。イギリスはオランダ経由で買い入れ、最初は高価なぜいたく品でした。その紅茶に、やはりイギリスでは採れない舶来品の砂糖を入れて飲むことが、お金持ちのステイタス・シンボルとされていました。
 やがてプラント・ハンターと呼ばれる人たちが、中国でお茶の木を探してイギリスに持ち帰ります。これを国内の植物園で育て、植民地であるインドのアッサムやダージリンといった地域に植えて栽培した結果、イギリスには紅茶が安い値段で大量に入ってくるようになりました。
 砂糖も同様に、西カリブの植民地に植えつけたサトウキビを、奴隷を使ってプランテーション(植民地の大農園)で大量生産するようになり、その後関税が大幅に引き下げられたこともあって庶民の間にも紅茶が普及したのです。
 「イギリスと植民地との関係を考えていくと、“砂糖や紅茶で蓄えた富を織物業に投資できたからこそ、産業革命が達成できたのだ≠ニも言えます。これは、近代世界をひとつのシステム(世界的分業体制)としてとらえ、諸地域間の結びつきからその展開を理解する『近代世界システム論』という考え方に基づいています」と中川准教授。 「過去の出来事をバラバラに暗記するのが歴史だというイメージが歴史嫌いを作っていますが、大学の研究ではその出来事がなぜ起こり、どういう意味があったのかを自分で考えて、体系的に把握していきます。そして、今の私たちが抱えている問題を解決するための手がかりを導き出すのが歴史学なのです」。


【なるほど!】

 国の歴史も個人の歴史も、周りとの関係の中で紡がれていきます。よりあわされて複雑に絡んだ歴史の糸をほぐしていくのは、根気も要りますがなかなか興味深い研究です。中川先生のお話を聞いて「ものの考え方を教えるのが大学なんだ」と改めて思いました。


【メモ1】 「妻を売ります」というチラシの謎

 男女間の問題も、歴史研究の重要なテーマです。
 産業革命以前、イギリスでは自分の妻を売りに出すことが行われており、「セール・オブ・ア・ワイフ」と書かれた18世紀のチラシも残っています。現代人が見たらびっくりしますが、実は当時の庶民は法的には離婚ができなかったので、形式的に夫が妻を売りに出すという方法を取っていたのだそうです。
 実際には、すでに夫婦は破綻しており妻には恋人がいるという場合、夫の面目を保ち、共同体の中で今後も暮らしていくための方便として、夫が妻を売り出して、その恋人が買うという形をとったのです。公の場で辱めを与え、新しい夫に慰謝料を払わせることは、モラルを破った二人を制裁するという庶民のルールでした。
 妻売りは、周りが楽器をかき鳴らしてはやし立てる一種のお祭り騒ぎで、フランスでは「シャリバリ」、イギリスでは「ラフ・ミュージック」と呼ばれる制裁儀礼のひとつと考えられます。17〜18世紀の間に、イギリスでは、この妻売りが約390件もあり、19世紀ぐらいまで行われています。


【メモ2】イギリスの「国民食」はカレー?

 17世紀以降になると、移民が入ってきたことでイギリスの食卓もバラエティー豊かになっていきます。
 たいていの移民は固まって住むので、そこに彼らの食生活を支えるショップができ、そこから食文化が発信されます。
 野菜の種類が少なかったイギリスでは、野菜はゆでたり、煮たりして食べることが普通でしたが、ヨーロッパ大陸からの移民のおかげでサラダも一般的になりました。キプロスやトルコからの移民が増えると、イギリスでもケバブ(焼肉)が食べられるようになりました。20世紀になるとインドやバングラディシュ、パキスタンからはカレーが入ってきましたが、スーパーなどで売っているのは日本のようなルーではなく、ビン入りや缶詰のカレーソースです。これを温めて、炊いたインディカ米にかけて食べるそうです。
 イギリスで考案されたカレー料理の代表格は「チキン・ティッカ・マサラ」というチキン・カレーで、外務大臣が「カレーは国民食だ」と言うほど今ではポピュラーな食べ物になっています。


【メモ3】労働者を紅茶好きにした禁酒運動
マンチェスター近郊の女工の昼休み
産業革命時代の女工たちは昼休みにも茶を飲むようになった。絵のほとんどの人が、ポットを持っている

 イギリス人は1日に4杯紅茶を飲むと言われます。多い時は7杯という時代もありました。18世紀ころには上流階級だけでなく、労働者階級もたくさん紅茶を飲むようになりました。
 労働者たちに紅茶を飲む習慣が定着したきっかけは、工場経営者が推進した禁酒運動の一環でした。週給制でしたから、労働者は土曜日にもらった給料で質屋から背広を出し、日曜日にはそれを着て教会に行きます。残ったお金で酒を飲んでへべれけになるため、月曜日には欠勤者が続出しました。そこで工場経営者は労働者に禁酒をさせ、遅刻をせずに出勤させるための方策として、朝から砂糖入りの紅茶を飲ませてカロリー補給をさせたのでした。


ナビゲーターは
熊本大学文学部歴史学科
西洋史学
中川順子准教授

歴史学は、史料という証拠を手がかりに探偵のような推理力で人類の歩みを探求するダイナミックな学問です。