【熊遊学(ゆうゆうがく)ツーリズム】
連綿と続く肥後医育の流れ 「古城医学校」から140年!
明治4年(1871年)、熊本に西洋医学が導入されて今年で140年。外国人教師マンスフェルトが残したその精神は、形を変えながらも伝わり続け、現在の熊本大学医学部へと受け継がれてきました。連綿と続く肥後医育の流れを、時代を追ってたどってみました。 |
教育での近代化図った熊本藩 【古城医学校の開校】 |
明治初期の古城の写真。木製の橋を渡り、右に病院、左に医学校があり、橋の下の堀は当時蓮(はす)池であったと思われます
明治維新後、佐賀藩が蒸気機関の開発、薩摩藩が溶鉱炉の製造と西洋式産業の育成で近代化を図ったのに対し、熊本藩は教育での近代化を目指しました。その一環としてつくられたのが「古城医学校」と「熊本洋学校」でした。宝暦年間設立の「再春館医学校」(現・再春館製薬所との関連はない)と「時習館」を廃止して設置したところに改革の強い意志が伝わってきます。 |
移転しながら続いた医療と教育 【通町病院〜北岡仮病院】 |
当時の外国人教師の報酬は、学校運営費の2倍にものぼる莫大な金額でした。そこで明治政府は、明治7年3月に外国人教師の契約期間中の報酬を除く、洋学校や医学校への官費(国費)の支給を廃止。廃藩置県後は熊本県、続いて白川県となっていた熊本でも、医学校の運営費は県が負担することになりました。 |
開校わずか4カ月で焼失再建なるも… 【県立熊本医学校】 |
明治15年ころの絵。現在の日本郵政グループ熊本ビルからホテルキャッスル付近。最上部が市役所北側の電車通り。右が坪井川で、その上部が厩(うまや)橋
古城医学校および病院が通町病院となってからも、県は結社を支援していましたが、一方では県立の新たな医学校開設の準備を進め、明治9年10月に「県立熊本医学校」が開校しました(現ホテル日航付近)。しかし、開校後わずか4カ月で西南戦争により焼失。その後、熊本市本山の一民家を借り受けて仮病院とし、前述の北岡仮病院とともに住民の医療衛生に力を尽くしました。医薬品などの乏しい中にあって、感染症の蔓延を防ぐことができたのは、両病院の功績だといえるでしょう。 |
西洋医学の肥後医育流れ守った漢方医 【九州学院医学部〜私立熊本医学校】 |
肥後六代藩主細川重賢(しげかた)が設立して115年間続いた医学寮「再春館医学校」の廃止後、漢方医たちは勉強会を始め、明治15 年に「春雨社」という結社を作りました。その一員だった高岡元眞(げんしん)の提唱で、4年後には「伝習会」という医育機関を設置。漢方医学と西洋医学の結合による肥後医育の再興を目指しました。 |
途絶えることなく現在へ 【熊本医学専門学校〜熊本医科大学〜熊本大学医学部】 |
【肥後医育の流れ】
明治36年、私立熊本医学校は、国の専門学校令に応じて「熊本医学専門学校」となりました。やがて、大正年間に、総合大学である帝国大学のほかに単科大学の設置が認められることとなり、熊本医学専門学校は医科大学への昇格を目指します。まず、本荘地区に移転し、大正10年に私立から県立になり、11年に「熊本医科大学」となりました。 |
【エピソード1】 「肉食のススメ」を明治天皇に上奏したマンスフェルト |
明治5年、明治天皇は熊本行幸の折、古城医学校と熊本洋学校を訪問しました。 |
【エピソード2】日本の医学教育の礎を作ったマンスフェルト |
マンスフェルトは、熊本に招かれる前は長崎の精得館(医学校)で教師を務めていました。 |
【エピソード3】肥後の医育を支えた辻便所 |
明治5年、政府が「立小便禁止令」を出すと、白川県(現・熊本県)は衛生上の問題として、古城医学校に対応策を考えるよう指示。マンスフェルトは、欧州先進国の例を出して、辻便所を設けるように提案しました。 |