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「あれんじ」 2011年11月5日号

【熊遊学(ゆうゆうがく)ツーリズム】
連綿と続く肥後医育の流れ 「古城医学校」から140年! 

 明治4年(1871年)、熊本に西洋医学が導入されて今年で140年。外国人教師マンスフェルトが残したその精神は、形を変えながらも伝わり続け、現在の熊本大学医学部へと受け継がれてきました。連綿と続く肥後医育の流れを、時代を追ってたどってみました。

教育での近代化図った熊本藩 【古城医学校の開校】
明治初期の古城の写真。木製の橋を渡り、右に病院、左に医学校があり、橋の下の堀は当時蓮(はす)池であったと思われます

明治維新後、佐賀藩が蒸気機関の開発、薩摩藩が溶鉱炉の製造と西洋式産業の育成で近代化を図ったのに対し、熊本藩は教育での近代化を目指しました。その一環としてつくられたのが「古城医学校」と「熊本洋学校」でした。宝暦年間設立の「再春館医学校」(現・再春館製薬所との関連はない)と「時習館」を廃止して設置したところに改革の強い意志が伝わってきます。
 中世、鹿子木寂心(かのこぎじゃくしん)が築いた隈本城のあった古城の地(熊本市古城町、現・県立第一高校)には、当時は松井家などの家老屋敷がありました。それらを改修して医学校と病院、洋学校が完成し、さらに長崎から大工を呼び寄せて熊本初の洋館2棟が建てられ、外国人教師の宿舎となりました。熊本洋学校には米国の退役軍人ジェーンズが、古城医学校にはオランダ人軍医マンスフェルトが招かれました。こうして、明治4年(1871年)に古城医学校が開校したのです。
 卒業生には、日本細菌学の父北里柴三郎、日本産婦人科学の始祖浜田玄達、東京帝国大学医科大学の衛生学初代教授緒方正規などがいます。
 マンスフェルトが熊本で教鞭をとったのはわずか3年間でしたが、古城医学校からは日本の医学を背負うことになる多くの人材が巣立ちました。


移転しながら続いた医療と教育 【通町病院〜北岡仮病院】

 当時の外国人教師の報酬は、学校運営費の2倍にものぼる莫大な金額でした。そこで明治政府は、明治7年3月に外国人教師の契約期間中の報酬を除く、洋学校や医学校への官費(国費)の支給を廃止。廃藩置県後は熊本県、続いて白川県となっていた熊本でも、医学校の運営費は県が負担することになりました。
 同年7月、任期満ちてマンスフェルトが去ってからは、病院が中心となって臨床的に医学教育が進められていましたが、県庁を熊本市二本木から同古城に移したいという県の要請で、8年11月に病院は通町に移転。「通町病院」と改称しました。
 医療関係者の間では、再び外国人教師を招きたいという希望も強く、そのための報酬の捻出に苦慮していたところに、8年4月には県からの病院運営費支給が打ち切られたため、病院では結社をつくり寄付を募りました。病院が熊本市通町に移転してからは、結社も「通町結社」と改称し、病院内に教場や塾を設けて旧校の生徒を迎えました。
 しかし、明治9年に神風連の乱が起こり、西郷隆盛決起の噂が出始めると、寄付金は集まらなくなり、外国人教師招聘の夢も頓挫したのです。
 明治10年、西南の役の戦火で焼失した通町病院は、わずかな医療機器とともに北岡の地に邸宅を借りて移転。「北岡仮病院」と称し、戦後の熊本を襲った感染症の治療にあたりました。
 そして13年には、横手小学校の放課後の校舎を借りて、医育も再スタート。しかし24年には閉鎖。病院も40年に廃止され、結社も解散しました。ここに36年間にわたる「古城医学校・病院」の歴史が幕を閉じたのです。


開校わずか4カ月で焼失再建なるも… 【県立熊本医学校】
明治15年ころの絵。現在の日本郵政グループ熊本ビルからホテルキャッスル付近。最上部が市役所北側の電車通り。右が坪井川で、その上部が厩(うまや)橋

 古城医学校および病院が通町病院となってからも、県は結社を支援していましたが、一方では県立の新たな医学校開設の準備を進め、明治9年10月に「県立熊本医学校」が開校しました(現ホテル日航付近)。しかし、開校後わずか4カ月で西南戦争により焼失。その後、熊本市本山の一民家を借り受けて仮病院とし、前述の北岡仮病院とともに住民の医療衛生に力を尽くしました。医薬品などの乏しい中にあって、感染症の蔓延を防ぐことができたのは、両病院の功績だといえるでしょう。
 熊本の惨状を伝え聞いた東本願寺の大谷大教正は、病院の再建資金を県に寄付。11年5月には新築の県立熊本病院が再開しました。さらに県は医学校の再設にも乗り出し、同年9月には約300名の新入生を迎えて、新築なった校舎で開校式が行われました(左絵に見える立地)。
 明治15年、文部省は地方の医学校を甲乙に分け、甲種医学校の卒業生には国家試験を受けなくても開業免許が与えられることになりました。県民が医育に誇りを持つ熊本では、県立医学校を甲種にという機運が高まり、同年10月に甲種医学校となりました。
 ところが20年になると、国が府県立医学校への地方税の投入を禁じたため、21年に同医学校は廃止されてしまいました。西洋医学導入による肥後医育興隆の努力は、明治政府の中央集権化政策と西南戦争のためにここでも挫折を余儀なくされました。


西洋医学の肥後医育流れ守った漢方医 【九州学院医学部〜私立熊本医学校】

 肥後六代藩主細川重賢(しげかた)が設立して115年間続いた医学寮「再春館医学校」の廃止後、漢方医たちは勉強会を始め、明治15 年に「春雨社」という結社を作りました。その一員だった高岡元眞(げんしん)の提唱で、4年後には「伝習会」という医育機関を設置。漢方医学と西洋医学の結合による肥後医育の再興を目指しました。
 21年の県立熊本医学校の廃止を受け、高岡は病院と教育一体型の施設の設立請願書を県に提出。しかし、許可が下りず、高岡らは「春雨黌」という私立医学校を発足させました。
 24年10月、春雨黌は熊本市内の済々黌、法律学校、文学館とともに「九州学院」(現・九州学院との関連はない)として統合され、その医学部となりました。高岡が医学部長に就任。明治8年制定の「医制」が西洋医学による国家試験合格を医師になる条件としたため、漢方医学は学科から姿を消します。
 教師に第六師団の軍医が多かったため、日清戦争が起きると教師不足と経営難で廃止やむなしの事態となりました。
 高岡医学部長は時の知事、松平正直に窮状を訴えました。知事も肥後医育の断絶を憂えて、県立病院長の谷口長雄らと協議を重ね、高岡が代表して私立医学校の新設を県に願い出ます。申請は認可され、29年に九州学院内に「私立熊本医学校」が設立され(旧熊本厚生年金会館所在地)、谷口が校長に就任。九州学院医学部は廃止されました。奇しくも、「再春館」で漢方医学を学んだ医師たちが、西洋医学に基づく肥後医育の流れを守ったのです。


途絶えることなく現在へ 【熊本医学専門学校〜熊本医科大学〜熊本大学医学部】
【肥後医育の流れ】

 明治36年、私立熊本医学校は、国の専門学校令に応じて「熊本医学専門学校」となりました。やがて、大正年間に、総合大学である帝国大学のほかに単科大学の設置が認められることとなり、熊本医学専門学校は医科大学への昇格を目指します。まず、本荘地区に移転し、大正10年に私立から県立になり、11年に「熊本医科大学」となりました。
 その後、昭和4年には熊本医科大学は公立から官立(国立)へ念願の移管をはたしました。そして24年の学制改革で第五高等学校をはじめ薬学・工業の各専門学校や師範学校などを母体とした新制大学、熊本大学が発足。医科大学は「熊本大学医学部」へと生まれ変わりました。こうして、「再春館医学校」以来連綿と続いてきた肥後医育の流れは、途絶えることなく現在に至るのです。


【エピソード1】 「肉食のススメ」を明治天皇に上奏したマンスフェルト

 明治5年、明治天皇は熊本行幸の折、古城医学校と熊本洋学校を訪問しました。
 この時、マンスフェルトは日本人の栄養状態を憂慮して、肉食を勧める上申書を提出しています。上申書はオランダ語で書かれ、翻訳文が付けられました。
 マンスフェルトは日本語を解さなかったので、医学校の授業はオランダ語で行われ、長崎で医学を学んだ高橋鼎蔵助教が通訳しました。医学校の学科にはオランダ語学もあり、マンスフェルトは、生徒が早くオランダ語に慣れるように、あえて日本語を学ばなかったともいわれます。


【エピソード2】日本の医学教育の礎を作ったマンスフェルト

 マンスフェルトは、熊本に招かれる前は長崎の精得館(医学校)で教師を務めていました。
 慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いで官軍が勝利を収めると、長崎奉行をはじめとする官吏たちはみな逃げ出しました。精得館の医官たちもマンスフェルトの計らいで外国船に乗り、横浜に逃げ去りました。
 その後、館長になった長與専齋(ながよせんさい)は、医学教育を刷新するにはどのような教育体制をしくべきか、マンスフェルトに相談し、マンスフェルトは「医学だけを教えても駄目。教養教育から先にやるべき」と、人間教育の大切さを説きました。これが、その後の日本での医学教育の規範となったのです。古城医学校にも、修身などの科目がありました。
 彼の教育理念は「生徒を医者に仕立てるのではなく、研究の上で行くべき道を示し、自ら研究する方法を教えるのが教師である」というもの。すべての学問に通じる理念を持っていました。


【エピソード3】肥後の医育を支えた辻便所 

 明治5年、政府が「立小便禁止令」を出すと、白川県(現・熊本県)は衛生上の問題として、古城医学校に対応策を考えるよう指示。マンスフェルトは、欧州先進国の例を出して、辻便所を設けるように提案しました。
 その設置費用の捻出に当時病院の会計を担当していた水島貫之が一計を案じました。当時、ふん尿は肥やしとして使われていたので、辻便所を農家に建ててもらい、肥やしとして汲み取り料を徴収しようというのです。
 こうして辻便所が市内50カ所に建てられ、その収入は病院経営につぎ込まれました。
 医学校および病院が通町、北岡に移ってからは、汲み取り料は病院の主な収入源となりました。北岡病院の事務係だった古賀新一郎は「小便古賀」と呼ばれたほどでした。
 明治20年、辻便所の構造規則が変わり、建て直す費用に困ってやむなく市に権利を譲った後、病院は経営が立ち行かなくなりました。