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「あれんじ」 2011年1月15日号

【四季の風】
第10回 野の墓

めぐりくる季節の風に乗せて、四季の歌である俳句をお届けします。

寸七翁忌の雪嶺にこゑあるごとし 中正

 もうすぐ1月30日です。といっても毎年恒例の30日早朝の花岡山での熊本バンドの早天祈祷会ではありません。今では俳句をやる人でもあまり知りませんが、実は熊本の近代俳句の先駆者の一人、宮部寸七翁が亡くなった日です。大正時代に活躍した新聞記者で俳人。投獄されたりの波乱万丈の生涯で、病で早く亡くなりました。ペンと恋に生きた詩人で、私はいつもイギリス・ロマン派の詩人のシェリーやバイロンを思い出してしまいます。何とも魅力的な俳人で、私たちは毎年、城南町丹生宮へ墓参りをします。
 張りつめたような青空のもと、まだまだ寒い風に吹かれて、雪の残る阿蘇の遠嶺を仰げば、遠くから寸七翁の声がしてくるようです。

   寸七翁忌の雪嶺にこゑあるごとし 中正

 ひろびろと寒風が吹きすさぶ野の墓の裏側には、寸七翁の生涯の代表句が刻まれています。これがまた、子規のへちまの絶命のくに勝るとも劣らない名句です。

   血を吐けば現も夢も冴え返る 寸七翁

 手で覆って線香の火をつけながら、ああこの寒さとこの人の生涯が、詩の原点なのかなどと思ったりするのです。何しろ、この詩人は亡くなった40歳のままの若さなのです。

   原点の墓碑とし凍土踏みにけり つのだともこ

   四十で死ねば四十よ寸七翁の忌 荒巻成子

 寸七翁の死後、高浜虚子は弟子の氏を惜しんで、「寒梅にホ句※の佛の上座たり」という追悼の一句を贈り、「寸七翁句集」には長い長い序文を書きました。寸七翁を中心に熊本で俳誌を創刊するという話は、その没後四年たって弟子たちの手で実現しました。それが私たちの俳誌「阿蘇」で、それから今年で九百五十号(約八十年)を迎えます。寸七翁の詩魂は、まだ生きて受け継がれているのです。
 
                            ※「ホ句」とは「俳句」のこと