すぱいすのページ

トップページすぱいすのページ「あれんじ」 2013年7月6日号 > いざ、知の冒険へ!「永青文庫」に 埋もれる宝探し

「あれんじ」 2013年7月6日号

【熊遊学(ゆうゆうがく)ツーリズム】
いざ、知の冒険へ!「永青文庫」に 埋もれる宝探し

 先端の研究者をナビゲーターに、熊本の知の世界を観光してみませんか!
 熊本大学を中心に地元大学の教授や准教授が、専門の学問分野の内容を分かりやすく紹介する紙上の「科学館」「文学館」。それが「熊遊学ツーリズム」です。第21回のテーマは「永青文庫」。さあ「なるほど!」の旅をご一緒に…。
取材・文/宮ア真由美

はじめの一歩

 細川家から熊本大学附属図書館に寄託されている「永青文庫」の細川家文書のうち266通が、今年国の重要文化財に指定されることになりました。そのニュースをきっかけに、改めて永青文庫の存在を認識。それらの古文書群と日本史との関わりについてお聞きしたいことがいっぱいです。興味津々、熊本大学文学部附属永青文庫研究センターを訪ねました。


【Point 1】「永青文庫」とは? 国内でもまれな歴史資料の宝庫

 江戸時代を通じて大名家は約300家ほどありましたが、明治4年の廃藩置県の時に各家に保管されていた文書類は県に移管され、その後さまざまな形で散逸したり戦災で焼けてしまったりしたケースが多く、細川家のように膨大な文書類が残っているのは非常にまれです。
 熊本では、県が不要と判断して処分しようとした文書類を細川家が取り戻し、菩提寺だった妙解寺(みょうげじ)跡(現・北岡自然公園)の細川邸の5つの蔵に保管。熊本大空襲の際も焼夷弾の直撃を受けながらも蔵は奇跡的に火災を免れ、貴重な歴史資料群が現代に伝えられることとなりました。
 現在、細川家の美術工芸品、古文書、書籍類は公益財団法人「永青文庫」が所有・管理しています。そのうち細川邸の蔵にあった4万300点余の古文書類は、昭和39、41年に熊本大学附属図書館に寄託されました。これを「細川家文書(もんじょ)」といいます。
 細川家は、1632年に忠利が藩主として小倉から熊本に入国してから明治維新まで熊本を統治しました。細川家文書には、その250年にわたる政治、経済、行政、法制、社会運動、医学薬学、建築、思想、芸術文化など人間活動のほぼ全般におよぶ史料群が含まれています。
 永青文庫所蔵の品々は、国宝や重要文化財を含む約6000点の美術工芸品と4万8000点の古文書ですが、そのうち熊本大学と県立美術館に寄託されたものを除いた品は、東京の文京区目白台の旧細川家屋敷跡内にある永青文庫に収納されています。
 また、県が所有してきた古文書は現在、県立図書館に保管されています。


【Point 2】永青文庫研究センターの研究活動の4つの柱

 「初代藤孝(幽斎)から300年にわたって蓄積された歴史資料や書籍の全体像を明らかにして、学会をはじめ市民、国民の共有財産にしていくことは、日本の歴史全体の理解のために極めて重要なことです」と、熊本大学文学部附属永青文庫研究センターの副センター長で専任教員の稲葉継陽教授は語ります。
 平成21年に設置された同センターでは、4つの目標を掲げて研究活動を進めています。
1)未整理の史料も含めた総目録の電子データ作成。人名や年代、案件などさまざまな角度から簡単に検索できるように、詳細な電子データ化を進めています。総目録作りが8割まで進んだ今、4万3000点を超える点数になりそうだといいます。
2)出版事業。東京の吉川弘文館から『永青文庫叢書(そうしょ)』5冊シリーズを刊行中。すでに『中世編』『絵図・地図・指図(さしず)編』のT、U『近世初期編』の4冊を出しています。指図とは、大名家の屋敷の間取りを示した図のこと。書状などの文書類はすべて写真を撮り、これを活字に起こしたものとセットで掲載。最後に解説を入れて、史料の意味を明らかにしています。1冊目の『中世編』には織田信長、豊臣秀吉の書状も入っており、本の出版を通じて史料の学術的な位置づけを明確にしたことが、今回の国の重要文化財指定にもつながったといえるでしょう。 
3)研究成果の社会的な還元。県立美術館での「幽斎展」「清正展」をはじめ、熊本日日新聞での連載(「武将・幽斎と信長」「ポスト戦国世代・細川忠利の国づくり」)やシンポジウム、講演など、諸機関の文化的な取り組みと連携することで、研究成果を社会に発信しています。また、幽斎の隠居地だった京都府北部にある舞鶴市の中学校の副読本『細川幽斎と舞鶴』の作成に全面協力。同センターのスタッフが分担して執筆・校正にあたりました。
4)将来、史料を保全活用する専門職の育成。現在、スタッフ18人の中には学生や大学院生が4人います。これだけまとまった史料や貴重書を管理している地方大学は他にないので、研究を次の世代に引き継ぐ人材を育てることもセンターの大事な役目です。


【Point 3】江戸時代の熊本から見えてくる自治的な地域行政

 細川家文書の中には、信長からの書状のように1枚で1点と数えるものだけではなく、厚さ30〜50センチにもおよぶ綴じられた文書が1万点ほどあります。これは、1年分の藩の行政記録を綴じたもので、その中には、地域住民レベルで起案、立案された案件が無数にあり、総目録のさらに次の目録が必要となり、目録作りだけでもキリがないくらいです。
 地域住民側の起案による事業は、例えば矢部の通潤橋の建設が挙げられます。これは惣庄屋の布田保之助一人の力ではなく、材料の調達や費用の工面、人材や工事期間についてなど、地域の中で農民たちが合意を重ね、それが下から申請されて初めて藩の事業として認められ実行されたものです。
 熊本の19世紀の土木・地域改善事業は、そこに住む庶民が惣庄屋らとともに起案書を作成して決済を受けたものがほとんど。大名家の史料でありながら、江戸時代の熊本の人々が何を願い、何を考えていたかが分かる宝の山なのです。


【Point 4】近代の日本社会の特徴が明確になった戦国時代を研究

 稲葉教授の専門は、戦国時代の研究です。「戦国時代は、明治維新と並ぶ歴史の一大転換点だったと考えています。関ヶ原の戦い以降、大坂の陣や天草島原の乱もありましたが、その後の200年以上にわたる平和状態は世界史年表を見てもなかなかありません。江戸の天下泰平は、戦国時代から生まれたものなんです」
 もし戦国時代が続いていたら、日本は海外の列強に植民地化されていた可能性が高いといいます。「そういう意味でも、戦国から江戸初期にかけては、近代史に大きな影響を与えたといえます。天下泰平がどのように生み出され、維持されていったかを読み解かないと、日本の歴史は分からないと思います」
 稲葉教授が戦国時代に興味を引かれるもう一つの理由は、近代の日本社会の特徴が明確になってきた時代だからだといいます。
 一例を挙げると、庶民の間でも名字を使うようになったのが戦国時代。江戸時代の庶民には名字がなかったといわれますが、実は公的な文書に書けなかっただけで、名字は戦国時代からあったのです。ということは、そのころになると「家」という組織が庶民の間にも成立していたことを意味します。
 「家」が地縁的に集まると「ムラ(現在の大字)」になり、ムラ社会が「町」を形成していきました。規律を学び道徳を養い社会的なものを身に着ける「地域コミュニティー」が出現したのが戦国時代だったのです。まず、社会の根っ子の構造がはっきりしてきたため、武士も庶民支配のために新しい組織作りをする必要に迫られて戦国大名が生まれ、領土をめぐる争いが激しくなっていったのです。
 「江戸時代初期の1600年代半ばぐらいまでは、まだ社会も不安定で戦国時代を引きずっていました。私の研究としては、それくらいまでを一つの区切りと考えて、永青文庫に数多く残る江戸初期の細川忠利のころの史料を目録作りと並行して調べていきたいと思っています」。日本の歴史が大きく塗り変わるような研究成果が期待されます。


【なるほど!】

 目録作りだけでも何年もかかるような膨大な史料の宝庫「永青文庫」。
その研究には幾世代もかかるかもしれません。でも、それは「知」の大航海時代の幕開け。これから、ますます日本史が面白くなりそうです。


【メモ1】「永青文庫」の名の由来

 永青文庫の「永」は、京都の細川家の菩提寺であった建仁寺の「永源庵」から取ったもの。「青」は、細川藤孝(幽斎)が織田信長に取り立てられ、京都の長岡京に初めて持った城の名前「青龍寺城」から取られているといわれます。


【メモ2】信長文書

 織田信長は、書状や掟書(おきてがき)など各種の文書を出していますが、現在その文書類は800点弱しか残っていません。そのうちの59点が永青文庫にあります。
 なぜ、信長の文書が少ないのかというと、豊臣秀吉や明智光秀、柴田勝家など、家臣のほとんどが滅亡し、取り交わした手紙類が消滅して残っていないからです。
 細川家のように明治時代まで続き、信長の書状を伝えている大名家はほかにありません。加賀百万石の前田家あたりに残っていそうなものですが、実は前田家は信長から直接もらった書状は少ないのです。信長が、約10年間にわたり同じ相手に出し続けた手紙が一括して残っている例は他にありません。


【メモ3】細川幽斎という人物像

 細川家の初代である藤孝は本能寺の変後に出家して家督を嫡男の忠興に譲り隠居。幽斎と号しました。この幽斎については、計算高くて腹黒いイメージで見られていました。しかし、永青文庫研究センターの研究から、戦国時代における幽斎の役割が見直されるようになりました。
 織田信長が最初に政治権力を握るためには、室町幕府の将軍、足利義昭を利用する必要がありました。この時、二人を結びつける役目を果たしたのが幽斎だと考えられます。幽斎は、母方が清少納言の血筋を引く公家の出で、「古今伝授」の秘説を伝えるただ一人の人物として、当時の文化人の間でもトップクラスでした。
 豊臣秀吉は関白になってすぐ、大友と交戦中の島津宛てに停戦を勧告する手紙を出しますが、この手紙に幽斎と千利休が「添え状」を書いています。島津家では、家の格が違うと秀吉を無視しますが、幽斎には返事を出しました。おかげで島津家はつぶされずに済んだのです。このように、都と地方の有力大名の間を文化的な側面から取り持って、コミュニケーションを成り立たせた幽斎の役割りは大きかったといえるでしょう。
 また、幽斎は足利義昭に従って流浪していたころ、室町幕府の儀礼やしきたり、文書の書き方の先例などをすべて書き写していました。徳川家康は江戸幕府を開いた時、江戸城で諸大名を従えて将軍としての儀礼を行うノウハウがありませんでした。幽斎は、家康の求めで室町幕府の儀式やしきたり、書式などを書き写したものを提出し、それを参考に、江戸幕府初期の儀礼の体系が整えられたと考えられます。
 結局、幽斎は秀吉、家康による天下統一の際に、室町幕府の証言者として文化部門のブレーンとなり、天皇制を利用した再統合の仕組みを作り出した、奥の深い人物だといえるかもしれません。


ナビゲーターは
熊本大学文学部附属
永青文庫研究センター
稲葉継陽(つぐはる)教授

 歴史の研究とは、今までの研究を批判的に検討することによって可能性のある仮説を立て、その仮説に基づいて史料を調査・実証する営みです。理系の研究と変わりません。