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「あれんじ」 2012年10月6日号

【熊遊学(ゆうゆうがく)ツーリズム】
夢いっぱいの 「薬物動態学」

 先端の研究者をナビゲーターに、熊本の知の世界を観光してみませんか!
 熊本大学を中心に地元大学の教授や准教授が、専門の学問分野の内容を分かりやすく紹介する紙上の「科学館」「文学館」。それが「熊遊学ツーリズム」です。第18回のテーマは「薬物動態学」。さあ「なるほど!」の旅をご一緒に…。

【はじめの1歩】

 世の中には、薬が大好きな人と大嫌いな人がいます。薬好きは、たとえ健康でも何かの薬を飲んでいないと落ち着かないようです。かと思えば、高熱が出ても薬と名のつくものは飲みたがらない人たちもいて、周りを困らせています。今回は、その「薬」…しかも聞き慣れない「薬物動態学」という分野の紹介です。いったい薬物の動きとはどういうことなのでしょうか? 頭の中は「?」マークいっぱいで、今井教授の研究室を訪ねました。


Point1 「薬物動態学」とは?

 「私たちが飲んだり、注射をした薬が、どの組織にどのように分布して、どうやって体から無くなっていくか、…つまり、薬が体内に入ってから出て行くまでのしくみを調べるのが『薬物動態学』です」と、熊本大学薬学部の今井輝子教授は語ります。
 飲んだ薬は吸収、分布、代謝、排泄という過程を経て体から出ていきます。まず、消化管から吸収され、血流に乗って体内をめぐりながら組織へと移動していきます。この時、薬は全身にまんべんなく行き渡るものや、薬を効かせたい臓器や組織に集中して分布するように作られているものがあります。そして、有効に働いた薬は、代謝されて別の分子に変化し、やがて尿や便、汗などとともに体外へ排出されます。
 薬の体内での動きの中で、まだよく分かっていないのが「代謝」です。新薬の開発段階で、薬が代謝された後にできる分子が有害か無害かの予測がつかないため、現時点では一つひとつ実験で確かめるしかありません。しかし、もし代謝の仕組みがもっと解明されれば代謝物が予測しやすくなり、新薬の開発は飛躍的に早くなるはずです。そこで、今井教授はこの「代謝」をメーンに研究しています。


Point2 新薬開発の流れ

 新薬を作るには、まずよい薬になりそうな種となる化合物を探します。製薬会社によっては数万個もの化合物を作り、実験を重ねることで毒性が少なくてより効き目のあるものを探します。この実験は、動物などは使わず、試験管の中で細胞レベルあるいはタンパク質レベルで行います。このように、試験管の中で行う実験を「イン・ビトロ実験」と言います。そして、10個ぐらいにまで絞ったら、さらにその中から体内での動態のよいものを探します。
 例えば、がんの薬を作りたい場合、がん細胞が細胞分裂している時に効かせる薬なのか、がん細胞のDNA合成を阻害する薬なのか、目的に沿ったものを見つけます。次に、肺に行ってほしいのに、脳にたくさん行くようなものでは駄目なので除外します。副作用が多くても困りますから、代謝物が無毒かどうかなどを調べた末に、やっと「前臨床実験(動物実験)」の段階へと進みます。
 しかし、動物とヒトで体内での薬の動きがまったく同じとは言えません。血中で薬と結合して組織まで輸送する役目を果たすのはタンパク質ですが、動物とヒトでは同じ種類のタンパク質でも構成要素であるアミノ酸の組み合わせが少しずつ違うのです。代謝酵素もタンパク質なので少しずつ違いますから、代謝そのものも違ってきます。そこで、どうしてもヒトによる臨床実験が必要になってくるのです。
 臨床実験は、健常な人で行うフェーズT(第一相)、狭い範囲で病気の人を対象とするフェーズU(第二相)、広範囲で病気の人に行うフェーズV(第三相)があり、フェーズVの段階まで進むことのできる新薬はわずか10%にすぎません。認可の段階でさらにふるいにかけられ、最終的に一つの新薬が誕生するまでに十年以上もかかります(メモ1)。


Point3 「プロドラッグ」と「アンテドラッグ」

 1970年ごろから盛んに研究が進められてきた薬に「プロドラッグ」と「アンテドラッグ」と呼ばれる2種類の薬があります。
 「プロドラッグ」とは、薬の前駆体(対象の分子に化学変化する前の段階にある分子)という意味の名称です。その名の通り、そのままでは薬としての活性はありませんが、体内で代謝されて活性化され、患部ではじめて薬になるのです。抗インフルエンザ薬、高血圧の薬の一部、飲み薬の抗生物質などがプロドラッグです。
 これに対して、まったく逆の発想から生まれたのが「アンテドラッグ」です。体内に入って患部で効くまでは薬としての機能を保ち、その後すぐに代謝されて無毒化するというもので、「ソフトドラッグ」と呼ぶ場合もあります。
 外用剤に使われているステロイドのほとんどは、アンテドラッグです。かゆみ止めなどの塗り薬やぜんそく薬、点眼薬などにステロイド剤が多いのですが、日本では「アンテドラッグ型ステロイド」と書かれていることが多いようです。


Point4 代謝に関わる酵素で、夢の新薬を!

 製薬会社では、開発に時間のかかる薬をできるだけ早く市場に出すために、代謝酵素の機能についてはあまり深く調べてはいません。代謝物が無毒だということが分かればいいからです。やはりそこは、大学の研究室が担うべき領域なのでしょう。
 今井教授は代謝…、特にプロドラッグを加水分解する酵素の働きについて研究しています。この領域の研究者は、日本では今井教授を含めて2人しかいないそうです。世界でも、研究している人は少ないといいます。
 これまでは、小腸と肝臓の代謝酵素をメーンに研究し、プロドラッグ作りを目指してきました。さらに最近では、局所で効いて血液中で無毒化するアンテドラッグなら、治療で使いやすいのではないかと考えているところです。そのため、血液中の酵素を調べているそうです。
 今井教授のお話では、ヒトは血液中に2種類の薬物代謝酵素しか持っていないということです。一つはパラオキソナーゼという酵素で、サリンや農薬などの有機リン化合物を分解したり、コレステロールの代謝に関わっていると考えられます。最近では、一部のステロイドを分解していることも分かってきました。もう一つの酵素ブチリルコリンエステラーゼは、薬物動態の分野では何のために働いているのかまだよく分かっていない酵素です。
 今井教授の研究グループで、血液中の酵素についてもっと多くのことが分かってくれば、酵素を利用した新薬の開発も夢ではありません。今井教授は、肝臓や小腸だけでなく血液や肺の代謝酵素を使って、必要なところで必要な時間だけ効いてすぐに無毒化するような薬作りを目指して、研究を続けています。


【なるほど!】

 「薬」とは、体内で化学変化を起こす物質なのですね。コンピュータや携帯電話など、私たちの周りでは日々革新的な変化が起こっていますが、体内では「代謝」というすごい変化が起きていることも再認識しました。その「代謝」を利用した、私たちには想像もできないような新薬が誕生することを楽しみにしています。


【メモ1】 新薬ができるまで


【メモ2】 「プロドラッグ」の代表選手、 抗インフルエンザ薬と抗生物質

 昨年12月に出たばかりの抗インフルエンザ薬「ラニナミビル」は、タミフルに似たプロドラッグです。ただし、タミフルは経口剤ですが、ラニナミビルは吸入薬です。
 細胞を包む膜は油の成分でできているので、水は入りにくいのですが、油っぽいものは入りやすいのです。その性質を利用して、油に溶けやすい成分を薬に結合させて肺の細胞に入りやすくしてあります。インフルエンザのウイルスは肺で殖えるので、スプレー式に気管を通じて肺に投与して、細胞内の代謝酵素によって活性化されて効く仕組みになっています。
 また、細菌の増殖を抑える抗生物質も、ほとんどが水溶性なので腸壁で吸収されにくく飲んでも効かないため、注射薬としてしか使えませんでした。しかし、注射だとたいていの人が嫌がります。そこで、飲んで効くように薬を油に溶けやすい構造に変えて、小腸の細胞で吸収されやすくしました。さらに、肝臓で代謝されて活性化されるので、飲んで効く抗生物質が可能になったのです。


【メモ3】 ステロイドを上手に使おう

 ステロイドは、体内の副腎というところで作られる化合物で、生命活動になくてはならない分子です。外から大量に入ってくると、副腎がステロイドを作るのを止めてしまうので、やがて副腎が萎縮するという困った結果が起こります。そのため、ステロイドの入った薬剤を嫌う人が多いのですが、「アンテドラッグ型ステロイド」と書いてある場合は、すぐに毒性の低い分子に代謝されます。
 効き目が早いので少量の使用で済みますから、初期に上手に使いこなせば、早く症状が治まり早く楽になるというメリットがあります。かゆみ止めなどは、一回塗っただけでかゆみが取れるので、かきむしったりする心配もありません。ステロイド剤については、毛嫌いせずに上手に付き合った方が、むしろ得策だと言えます。


ナビゲーターは
熊本大学薬学部
病態薬効解析学講座
今井輝子教授

試験管とにらめっこしている姿は地味ですが、違う観点からの新薬開発という夢があるんですよ。