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「あれんじ」 2014年7月5日号

【熊遊学(ゆうゆうがく)ツーリズム】
有機化学の醍醐味 フラスコ内で未知との遭遇!

 先端の研究者をナビゲーターに、熊本の知の世界を観光してみませんか!  
 熊本大学を中心に地元大学の教授や准教授が、専門の学問分野の内容を分かりやすく紹介する紙上の「科学館」「文学館」。それが「熊遊学ツーリズム」です。第25回のテーマは「有機化学」。さあ「なるほど!」の旅をご一緒に…。 取材・文/宮ア真由美

はじめの一歩

 最初「有機化学」というジャンルは、あまりピンと来ませんでした。「有機」と「化学」は、かけ離れたイメージだったからです。ネットで調べると、有機化合物の製法や構造などについて研究する化学の分野だとか。さて、どんなお話が聞けるのか、まっさらな気持ちで研究室に向かいました。


【Point 1】「イオン反応」と「ラジカル反応」 

 化学という学問では、自然界のすべてを物質としてとらえます。動物や植物などの生命体も細かい分子の結合体。私たち人間の体も分子の結合体で、その分子は主に炭素と水素、酸素、窒素でできており、これに少しだけイオウやリン、金属イオンが含まれています。分子はもっと細かく分ければ原子や電子、さらに細かくすると素粒子でできています。しかし、分子単位でないと物質として機能しないので、化学では主に分子までを取り扱います。
 私たちは分子でできた化合物で囲まれています。このうち炭素を中心にして結合した化合物を「有機化合物」、それ以外のものを「無機化合物」と言います。生き物や紙、プラスチックやビニール袋など、身の回りにある多くのものが有機化合物です。有機化学とは、そのような有機化合物を人工的に作ったり、その反応の過程や化合物の構造や性質を調べたりする学問です。
 「有機化学の第一の目標は、炭素同士を結合させて新しい化合物を作り出すことです」と語るのは、熊本大学大学院自然科学研究科の西野宏教授。有機化合物の生成過程で起こる化学反応には、+(プラス)性と−(マイナス)性の電荷を帯びた化学種(しゅ)が反応する「イオン反応」と、電荷を持たないラジカル(遊離基)と呼ばれる非常に不安定な化学種が反応する「ラジカル反応」があります。


【Point 2】炭素ラジカルを使って、新しい有機化合物を合成

 ラジカルは大変不安定なので、安定になろうとして極めて速いスピードで反応します。そのため、反応の制御が難しく、化学者はラジカル反応を使うことを敬遠しがちでした。しかし、西野教授は逆転の発想をしました。不安定ということは、裏を返せば活性である(化学反応性に富む)と考えたのです。こうして、炭素同士を結合させるのに炭素ラジカルを使うという研究が始まったのです。
 西野教授は、有機化合物の炭素同士の結合を真っ二つに切り分けて炭素ラジカルを発生させ、それを使って新しい有機化合物の合成や新しい反応の研究を続けてきました。
 「一つのフラスコの中では、たくさんの素(そ)反応が起こっています」と西野教授。素反応とは、複雑な化学反応を構成する一つ一つの基本的な反応のことです。「山頂を目指すのに、いろんな道があるというようなものですね。多様な素反応が起こっているのに、私たちには一番遅い反応しか見えません。でも、素早いラジカル反応により予期しなかった化学結合が生まれたり、ほんのわずかですがまったく新しい化合物ができたりするんですよ。山頂を目指して別々の道筋をたどった人の中には、間違って別の山頂に登った人もいて、それが素晴らしい景色だったというわけです」


【Point 3】炭素同士がつながった「環状化合物」の合成

 炭素同士の結合の多様性は無限ですが、自然界では長く連なっていくのが普通です。ところが、西野研究室では炭素同士が頭としっぽでつながって丸い輪になったさまざまな形の有機化合物が作り出されています。反応が起こる時に、少しエネルギーを加えてやると輪(環状)になるといいます。
 2つの炭素の輪が1個の炭素で結ばれた「スピロ化合物」(図1)、輪が1組の炭素と炭素の結合を介してプロペラのように三つどもえに付いている「プロペラン」(図2)、大きな輪の「大環状化合物」(図3)など自然の法則に逆らって、いろいろな環状化合物を作り出すことが、西野教授の第二の目標です。
 しかし、分子レベルの化合物の形をどのようにして知ることができるのでしょうか? 西野研究室では、病院のMRIと同じ原理を使った NMR(核磁気共鳴)装置などで分析して、合成した化合物の分子構造を割り出します。次に、それがこれまでに知られていない化合物かどうかをインターネットのデータベースで調べ、新しいものであれば名前を付けて登録することができます。
 西野教授は、空気中の酸素分子を取り込んだ安定な有機環状過酸化物を合成し、1989年に世界で初めてその分子構造を明らかにしました。それまで、有機過酸化物は一般に不安定で分解しやすいので、その構造を明らかにすることは難しいとされてきました。以後、この発見によって多くの有機過酸化物の合成が達成され、抗マラリア活性(マラリア原虫を殺す力)、抗菌作用や鎮痛作用などの薬としての可能性のある有機過酸化物(図4)が作られました。


【Point 4】新規有機化合物の可能性

 現在、西野研究室では年間200〜300種類の新規有機化合物が作り出されています。教授が発見した反応を使えば、最大100角形までの分子構造を持つ有機化合物が作れるようになりました。
 環状化合物には薬の原料など、人体にさまざまな作用を引き起こす化合物が多いと言われます。西野研究室で開発されたラジカル反応を使えば、長い分子構造の化合物を環状にすることにより、さまざまな作用を持つ化合物を作り出すことができるのです。
 このようにして合成された多くの化合物は、薬学や工学の分野との連携でその機能性が調査されています。有機化合物のどの部分が効くのかを調べ、不要な部分を切り取って無毒化し、人にも環境にもやさしい薬や殺虫剤、除草剤などができるのも夢ではありません。
 また、大環状化合物の特徴として、輪の外側は水分子となじみやすいのに対して内側は水分子をはじいて油分子となじみやすいなど、輪の内側と外側では違う環境を作り出すことが挙げられます。
 そこで、油分子になじみやすい輪の内側に他の有機化合物を取り込むことで、ドラッグ・デリバリー(薬の生体内運搬)などにも応用できそうです。
 例えば、抗がん剤を大環状化合物の内側に入れて血液内に
投入するとします。大環状化合物は外側が水になじむので全体が血液に溶けて運ばれて患部に行き、そこで油になじむ抗がん剤だけが出てきてがん細胞内に取り込まれれば、集中的に効くという具合。薬効が高まる上に、人体の他の部分への負担も減ります。
 西野研究室では、このような社会還元につながる可能性を秘めた基礎研究が続けられています。


【なるほど!】
【図1】スピロ化合物
構造が面白く、自然界にも多数この骨格が存在する

 有機化合物の中には人類に貢献できる有用な物質も少なくないことを知り、改めて「有機化学」という分野の重要性をかみしめました。世の中の役に立つには、薬学や工学など実学の分野への橋渡しが不可欠ですが、その基礎の基礎がしっかり研究されてこその社会還元です。西野先生ガンバレ!

【メモ1】有機化学から見た「代謝」と「生命活動」

 私たちが食べる肉や魚などのタンパク質はアミノ酸から、お米などのデンプンは糖からできています。アミノ酸も糖も有機化合物です。有機化学的に見れば、食事をすることは炭素の化合物を食べるということになります。
 炭素の結合部分にはエネルギーがたまっています。「代謝(異化)」とは、その結合を切るということです。すると、そこにたまっていたエネルギーが放出されます。私たちはこのエネルギーを、生きるために使っているのです。

【メモ2】地球上の生物は左巻き?

 巻貝に右巻き(R)と左巻き(S)があるように、有機化合物の分子式が同じでも三次元的に見ればちょうど鏡に写したように逆向きの化合物があります。
 フラスコの中で普通に合成されたそのような化合物は、「ラセミ体」といって分子構造が右巻きと左巻きのものが半分ずつ存在します。ところが、一部のバクテリアを除いて地球上のほとんどすべての生物は左巻き(S)のアミノ酸を基にしてできています。
 その理由は、生命の誕生以前に地球上にできたアミノ酸はラセミ体だったが、右巻きと左巻きのアミノ酸で紫外線による分解速度が違ったのが原因ではないかという説が有力です。海岸の波打ち際で紫外線にさらされた海水中のアミノ酸は、右巻きの方が速く壊れたと考えられます。いったん数のバランスがくずれると、「自己増殖触媒反応」によって少し多く残された方がどんどん増えていき、極端なアンバランスが生じたのではないでしょうか。


【図2】プロペラン類
構造が面白く、自然界にもこの骨格が存在する


【図3】大環状化合物
構造や機能性に興味あり。3員環から100員環まで合成できた


【図4】有機過酸化物
どちらも抗マラリア活性や抗菌活性、鎮痛作用等をもつ化合物の基本骨格


ナビゲーターは
熊本大学大学院自然科学研究科
理学専攻化学講座
西野宏教授

化学は、サイエンス(理学)の中で唯一モノが作れる学問です