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「あれんじ」 2010年12月4日号

【専門医が書く 元気!の処方箋】
生殖補助医療はいま

 体外で卵子や精子、受精卵の操作を行うことで妊娠の手助けをする医療を指す「生殖補助医療(ART:Assisted Reproductive Technology)」という言葉を聞くようになりました。今回は、この医療技術の発達によって何ができるようになったのか。また、それに伴う問題は何かをお伝えします。

はじめに
【図1. 生殖補助医療による出生数】

齊藤英和. ART登録システムとその登録データからわかるARTの現状. 
日産婦誌 62:739-745, 2010を一部改変

 2010年のノーベル医学・生理学賞は、英国のRG・エドワーズ博士に授与されました。エドワーズ博士は、故人であるステプトー博士と共に1978年に世界で初めてヒトの体外受精・胚移植に成功した人です。
 体外受精・胚移植のように、体外で卵子や精子、受精卵(=胚)の操作を行うことにより妊娠の手助けをする医療を、生殖補助医療(ART)といいます。はじめのころARTは大学病院のような一部の限られた施設でしか行っておらず、「試験管ベビー」という怪しげな名前で呼ばれていましたが、今では日本中にARTを行うクリニックがあります。2008年の日本で、ARTによって出生した子どもの数は21701人でした。これはこの年の総出生数の1・99%、つまり50人に1人に当たります(図1)。この割合は双子より多いのです。
 ARTの発達により、これまで妊娠が難しかったご夫婦でも子どもが授かるようになりましたが、その一方でこれまで予想もしなかったことが生じてきました。今ARTでは何ができて、何が問題になっているのでしょうか。


「日本で行われている生殖補助医療」
【図2】
日本産婦人科医会http://www.jaog.or.jp/JAPANESE/PUB/funin/chiryo/GIF/IVF-ET.htm

■体外受精・胚移植(図2)
 卵巣から排卵間近の卵子を採取(=採卵)し、ご主人の精子といっしょに培養すると受精がおきます(=体外受精)。こうして得られた受精卵を数日間培養して育った胚を子宮の中に戻します(=胚移植)。もともとは精子や受精卵の通り道である卵管の働きが悪い人のために開発された方法ですが、精子の数が少ない場合や、不妊の原因が不明のまま、なかなか妊娠しないご夫婦に対しても応用されています。1回の胚移植あたりの妊娠率は30代女性で30%から40%、40代女性では20%未満に下がってしまいます。

■受精卵の凍結保存
 体外受精で得られたたくさんの胚をすべて子宮の中に返してしまうと、三つ子、四つ子といった多胎になってしまい、早産の危険が高まります。このため日本では、1回に戻す胚の数は原則として1個と決められています。残った胚は捨てるのではなく、特殊な方法で液体窒素の中に凍結保存し、着床しそこなった場合や第二子を希望される場合に使うことができます。このことは多胎を防ぐばかりでなく、採卵の回数を減らすことにもつながります。日本では諸外国に比べて凍結胚移植が多く行われる傾向にあります。

■顕微授精
 ご主人の精子の数が極端に少ない場合や運動が悪い場合などに、体外受精で採取した卵子を顕微鏡で見ながら、一個の精子を針で注入して受精させる方法です。ただ一個の精子さえあれば妊娠できる可能性があります。また精子は必ずしも動いている必要はないので、いったん凍結保存した精子を用いる場合も良好な受精率が期待できます。

■提供された精子による人工授精(AID)
 ご主人に精子が全くないために妊娠が望めないご夫婦では、第三者から提供された精子による人工授精を受けることができます。精子を提供する人は匿名とされます。精子提供者からエイズなどの病気がうつるのを防ぐため、提供された精子はいったん凍結保存されて、提供者が健康であることが確認されてからはじめて人工授精に用いられます。現在日本では16の施設がAIDを行っています。


日本では認められていない生殖補助医療

■卵子提供
 卵巣や卵子がない女性が、他人の卵子とご主人の精子を授精させてできた受精卵を自分の子宮に戻して妊娠・出産する方法です。抗がん化学療法や放射線療法により卵巣の機能が失われた女性などが対象となります。もしこの方法が国内で実施された場合、日本の法律では、子どもは出産した女性の実子として認められることになります。
 平成15年に厚生科学審議会は、厳密な基準を守れば卵子提供を行ってもよいだろうという見解を出し、生殖医療の専門家の集まりである日本生殖医学会も卵子提供を容認したのですが、その後、実施に向けた審議は進んでいません。
 一方、アメリカやスペインでは有償でひろく卵子提供が行われており、このため日本での認可を待ちきれないご夫婦がこのような国に渡航して卵子提供をうけることがあります。この方法を用いると、自然に妊娠することはとても考えられない高齢での危険な妊娠が起こり得ますし、また、提供卵子による妊娠では、妊娠高血圧症候群を来す危険が自分の卵子の場合の数倍高いことが報告されています。どのくらいの方々が海外で卵子提供を受け、安全に出産しているどうか調査が必要なのですが、日本ではまだ進んでいません。そのような調査に基づいて今後基準作りを急ぐことが大切だと思います。

■代理懐胎
 子宮がない女性が、自分の卵子とご主人の精子を体外授精させ、他の女性の子宮に戻して妊娠・出産してもらう方法です。これも海外で行われる事例が増えているようです。
 日本産科婦人科学会は代理懐胎を認めていません。そこには倫理的・法律的・社会的・医学的な多くの問題があります。詳細は省略しますが、産科医の立場から申し上げると、母親は胎児の発育と出産にかかわる特権と同時に責任を持っているといえます。だから妊婦さんは頑張って禁煙したり、子どもの安全のために帝王切開術を受けることに同意するのです。海外で慌ただしく代理懐胎を依頼した夫婦の場合、子どもが思いがけず障害を持って生まれてきた場合でも、心変わりすることなくその子を受け入れてくれるか、私は疑問に思っています。生殖補助医療は夫婦のためではなく、生まれてくる子どもの幸福のためにあるということを忘れてはなりません。


■死後生殖
 精子は液体窒素の中で半永久的に受精能力を保つことができます。このため、抗がん剤や放射線療法など精子がなくなるような治療が予定されている男性では、あらかじめ精子を保存しておいて、治療が終わったあとにその精子を用いて子どもを作ることができます。ところが、もし男性が亡くなったあとでも、精子が保存されていればそれを用いて妊娠を成立させることが技術的には可能となってしまいました。日本産科婦人科学会、日本生殖医学会は、精子を保存している男性が亡くなった場合にはただちにその精子を廃棄する
ように定めています。


おわりに

 ARTはわずか20年あまりの間に身近な医療技術となり、より多くの不妊に悩む方々の希望に応えるようになった反面、さまざまな倫理的問題を抱え込んでしまいました。日本でのARTのありようをどうするのか、正面から向き合った議論が必要です。


今回執筆いただいたのは…
熊本大学医学部附属病院 
産科婦人科
大場 隆 准教授