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「あれんじ」 2014年9月6日号

【慈愛の心 医心伝心】
【第40回】忘れられない経験

女性医療従事者によるリレーエッセー 【第40回】

【第40回】忘れられない経験
済生会熊本病院腎臓内科
医師 岡村 景子

 私には忘れられない患者さんがいる。

 昔勤めていた病院でのことである。ある日の昼時に、一人の男性患者が入院室からいなくなった。認知症のため、入院していることすら理解できない患者さんである。

 病院内には見当たらなかった。「病院外に行ったのだ!」。私は慌てて自分の車で病院周辺を探し始めた。真冬で今にも雪が降り出しそうな空模様だった。

 「寒さのあまり凍えているかもしれない。病院から自宅は遠く、右も左も分からない状態のはずだ」。さまざまな不安がよぎる。必死の思いで探していると、前方に病院着一枚、スリッパ姿で歩いている患者さんを発見した。

 慌てて車を止め、声をかけると、「おー、どこかで見かけたような。誰だったかなぁ…」。冷え切った体を支え、車に乗せた。「お腹すいてないですか?」の問いに「そういや、すいたな」と返事をされる。手持ちのチョコレートを渡すと、「こりゃうまか」と笑顔になられている。しばらくすると、「うまかお菓子ばもらったよ。君も食べんか?」と勧められた。罪のない笑顔にこれまでの不安が一気に吹き飛び、思わずこちらも笑顔になった。

 結局なぜ病院を出たかは分からなかった。家に帰りたかったのであろうか。一瞬、「理由はともあれ、とにかく元気でいてくれてよかった」と心の底から感じた。気づけば患者さんを家族のような思いで見ていたのかもしれない。

 あの時の気持ちを忘れずに患者さんに親身になれる医療者でありたいと、いつも思う。